コラム · INSTAGRAM
映画祭のリールには、二種類の観客がいる
審査員は応募条件に照らして作品を見る。フィードを眺める人は、その条件を読んでいない。ムンバイのEdits映画祭は、この違いを考えるよいきっかけになった。
10月14日、ムンバイでEdits Film Festivalが閉幕した。その前日にMetaが発表した入選作品の紹介には、興味深い説明がある。選ばれた作品は、物語の魅力だけでなく、編集アプリEditsで何ができるかも示していたという。つまり作り手には、二つの課題があった。観客に物語を届けることと、主催者に編集ツールの使いこなしを見せることだ。[1][2]
そこに裏があるわけではない。動画編集アプリを軸にした映画祭が、編集技術に注目するのは当然だ。応募条件が、まだ使ったことのない手法を試すきっかけになることもある。普段なら埋もれていた作品に、審査員の目が届くかもしれない。話がずれるのは、その後だ。コンテストでの成功を、普段のフィードでも通用する成功の手順として受け取ってしまう。
観客は、必須エフェクトの一覧を持っていない
こんな短い場面を考えてみよう。ある人が大事な会話を何度も練習するが、いざ相手を前にすると、まったく別の言葉が出てくる。編集で何度かの失敗を見せ、本番の返答の前に間を置けば、その人物の気持ちが伝わる。ところが、せりふのたびに字体も背景も速度も変わったら、観客は会話を追うより画面の見せ方を読み解くのに忙しくなる。後者のほうが手間はかかるかもしれない。だからといって、面白くなるとは限らない。
単純な動画か、凝った動画かという二択ではない。複雑な編集そのものが物語になることもある。二つの映像をぶつけることで、言葉では作れない笑いが生まれる。考えたいのは、ある演出を取り去ったとき、観客が何を失うかだ。意味やリズム、意外性が失われるなら、その演出には役割がある。消えるものが「作者がこのボタンを見つけた」という証拠だけなら、なくても作品は成り立つかもしれない。
今回のコンテストでは、応募作品をEditsで編集する必要があった。ただ、その条件を以後の動画すべてに引き継ぐ必要はない。道具の使い方を学ぶのは有益だ。学んだことを、観客の前で毎回すべて披露する義務はない。音楽学校に通うのも、毎回の演奏会で音階練習を聞かせるためではないはずだ。[2]
受賞は評価であって、リーチの公式ではない
この映画祭自体を、エフェクトの見本市と決めつけるのも違う。結果を伝えるMetaの記事は、受賞作の抑制の利いた表現を評価している。この点は大切だ。「機能を多く使うほど高評価」という単純な読み方はできない。主催者自身も、技量を使った機能の数より広いものとして説明している。[2]
審査員がどの作品を評価するかと、Instagramがどのリールを広く届けるかは、別の問題だ。今回読んだ発表には、Editsを使えば優先的に拡散されるという約束はない。受賞したことから、ランキングのルールや見込める再生数は導けない。作者が得たのは、特定のコンテストでの評価だ。そこにアルゴリズムを読み解く力まで与えるのは、少々大盤振る舞いだろう。[1][2]
この映画祭から学べるのは、表現に合う手法を自分で選ぶ大切さだ。コンテストが実験を促しても、次の動画には別の判断が必要かもしれない。よい編集ツールは、作者の選択肢を増やす。よい作者は、そのすべてを見せなければとは思わない。